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SHOUDAI KANAMINE

金峰 鐘大

株式会社IAO竹田設計
代表取締役社長

1976-2021 IAO 45th Anniversary

01創業者・竹田秀道との出会い

人柄に惚れた竹田と共に
独立を決意した1976年のできごと

2021年2月7日に逝去した創業者・竹田秀道との出会いは1971年のこと。三重県の高校を卒業し、難しい就職試験の関門を突破して設計業界に入った4年目の時でした。
当時の事務所は50人ほどでしたが、1976年の春先、オイルショックによる影響もあり、当時の社長から、役員はそれぞれ独立してグループの活動をするとのお達しがあり、その時、真っ先に手をあげたのが、若くして設計部長の立場にあった竹田でした。
もともと私自身も独立志向はありましたが、8歳年上の竹田から「一緒にやらないか?」と声をかけられたんです。その頃の竹田は、丸刈りで、武骨そうで信念があり、建築がとにかく好きで、面倒見もよく、その人柄に惚れていましたから、「この人と一緒にやることが自分にとっての独立だ」と思い、ふたつ返事で決めました。
お盆休み前に独立を決意してから、10月7日に創業するまではあっという間。しかも竹田は、前途不安の中、阪井(現副社長)と和田(元東京事務所長)の2人も加えてスタートするなど、本当に腹の太い人でした。
また、設立当初から「人々の生活のための建築を通して社会に貢献する」との言葉を常々口にしていましたが、この立派な心構えこそ、45年間続くIAO竹田設計の創業の精神です。

02寝る間も惜しんで働いた草創期

病気を患っても前に進めた原動力は
「絶対に成功させる」という強い気持ち

前の設計事務所時代に担当していたプロジェクトの関わりもあり、独立直後からお仕事をいただくことができました。
目の前の仕事を一生懸命にやり、相手に気に入っていただければ、かならず次の仕事につながる。だからこそ、「明日の朝、図面を仕上げてこい」と言われたらかならずやり遂げる。4人での出発となった独立を「絶対に成功させる」という強い気持ちでしたから、寝る間も惜しんで仕事をしていましたね。
その結果、27歳で独立してから3年目の頃に、十二指腸潰瘍を患ってしまい…。結婚して子供が生まれて間もない頃でしたし、30歳にしてお先真っ暗だと思いましたよ。睡眠は大事ですよね。
それでも竹田は、「えらいこっちゃ」と言いながら、仕事が終わったらいつものように「呑みにいくぞ」と言うんです。病気だからと断ろうとしても、「なにを言ってるんだ、酒を吞みながら治さなあかんやないか」と。
今の時代なら許されないことでしょうけど、結局は惚れた男の言う通りに動いていました。医者に行くのは最初だけで、働きながら、吞みながら、十二指腸潰瘍は3年ほどかけて自分で治しました。

03性格ちがいのバッテリー

一本槍な竹田が投げるボールを受けとめ
会社を成長させてきた二人三脚の50年

竹田はずっと、コンコンチキの建築家。その一方で私は、ビジネスとしての営業的な側面を大切にしてきました。
竹田はいつも、「建築家は営業したらダメ。建築の仕事を見てもらって初めて、次の仕事がくるものだ」と言っていました。これは建前としては当然でしょう。ただ、会社としての成長を考えたり、社員の数が増えてくる中で、新しい仕事を生み続けるための努力は欠かせませんでした。
考えてみれば、竹田と私は、正反対の性格でしたね。お互いが真逆の姿勢でIAO竹田設計に携わってきたからこそ、お互いに足りないところを補いながら上手くやってこれたのだと思います。
夫婦と一緒で、私と竹田はバッテリーです。竹田は武骨で一本槍なピッチャーで、私はその球を柔軟に受けとめるキャッチャー。私のほうが頭は柔らかく、攻め手も多かったですから。
竹田とは、出会った前の事務所から数えると50年近く一緒にいました。つまり親よりも、兄弟よりも、妻よりも長く、一緒の時間を過ごしました。竹田とでなければ、IAO竹田設計を育てていくことはできなかったと感じています。

04発展拡大への道のり

地道なチャレンジの積み重ねで
総合設計の竹田+超高層の竹田が代名詞に

創業から45年が経ち、驚くほど進化・進歩し、ここまでの規模に成長できたのは、運の良さもあります。
例えば、1981年に大阪市が特例で打ち出した「総合設計制度」は、IAO竹田設計の発展にとても影響がありました。この制度は、市が人口を増やすために、郊外に分散していた人々を大阪市内に呼び戻そうと、土地の値段を優遇する制度でした。
その制度に可能性を感じた私は、真面目に大阪市に通い続け、規模の小さな設計事務所としては異例でしたが、そのノウハウを教えてもらえたことが幸運でした。
以来、たった4人だった事務所にも人数が増え始め、大阪が軌道に乗ったこともあり、創業10年目に市場規模の大きい東京への進出にもつながりました。
また、時代はちょうどバブル景気の真っ只中。またたく間に設計の仕事は増え、1988年に瀬戸大橋が開通すると、竹田の故郷である高松にも新たな拠点を設けることができました。
時代が平成になると、さらにビジネスの成長度を高めようと、「超高層」の案件に活路を見出しました。それまでの超高層物件は、大手ゼネコンばかりが設計を担当していましたが、IAOとしてチャレンジすることを決めました。
地道に築いてきたスキルを活かすことができ、「総合設計の竹田」に加えて「超高層の竹田」と言われるきっかけにもなりました。今では、大手ゼネコンを除いて、日本で一番多く超高層の建物の物件を手がけていると思います。

05設計事務所の財産は「人」

「人にやさしい」をモットーと信念に
目に見える形で社会全体に貢献し続けたい

仕事の数は順調に多くなり、拠点も国内外に広がり、スタッフの数も少しずつ増えてきました。唯一、バブルがはじけた時だけは、業績的に厳しい局面がありましたが、じっと耐えて、誰ひとりとしてリストラすることはしませんでした。
なぜなら、私のモットーとしている言葉が、「人にやさしい」だからです。人は財産です。仲間である人を一番大切にすることを、会社経営の信念としているからこそ、スタッフの存在を見捨てませんでした。
建築は、人ありきの仕事です。それぞれが図面を描いて設計した建物の工事が終わり、足場が外れ、建物の全貌が目に飛び込んできた時、「これだけのものをやれた」という感動は、いくつになっても、いつの時代も変わりません。
建築という仕事は、設計した建物ができ、それが街をつくり、そこに人が住み、安全安心な暮らしができあがります。また、その建物は、その街に何十年と残ります。自分という存在がなくなった後でも残ります。
これは、竹田が創業時に掲げた「社会への貢献」そのものであり、目に見える形で、社会全体に貢献できるすばらしさがあります。設計事務所としての仕事、建築家としての醍醐味は、これに尽きると思っています。

06総合力のある個人・会社

よりよい建築を社会のために残していく糧として
優秀な人材を大切にした組織づくりを

人は、組織づくりの面でも欠かせません。特に今の世の中は、きちんとした建築を手がけようと思えば、技術だけでなく、しっかりとした組織を持たなければいけません。
品質管理も含めた要求のすべてに応え、関わっていくためには、お客さまや社会から評価される組織が必要であり、そのための人が必要であり、しっかりとした組織としての価値を発信しなければなりません。
決して安請け負いをするのではなく、設計事務所としての価値を認めてくれる発注者の期待に応えることが本来の仕事のあり方だと思っています。よりよい建築を社会のために残していく糧として、優秀な人材を大切にすること。そのために、会社として必要な利益を確保した上で、あとは社員への還元を第一とし、可能な限り待遇面にも反映し、建築家はカッコよく裕福でなければいけないと考えています。
これから先、ご縁があり、IAO竹田設計に入社していただけるスタッフ一人ひとりに、「一緒に頑張ろう!いい作品をつくり、共に成長しよう!」と声掛けしたいと思っています。
単純な世の中ではなく、多角的なものの見方が大事になってきた現代社会です。これからは、「総合力のある人間」であることが求められます。設計という能力だけでなく、人付き合いなどの協調性や営業にもつながる資質が大切です。
「総合力」のある人材を、私たちは心から求めています。個人の総合力が合わさった時、会社全体の総合力も自ずと高まっていき、もう一回り成長した総合設計事務所へと進化できると信じています。

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